鏡の中のベルイマン
大学生の頃、友達に誘われて名画座に二本立ての映画を見に行った私は イングマール・ベルイマン監督の映画に初めて出会った。
それは確か、「叫びとささやき」という映画だったと思う。 (ちなみに、友達のお目当てはもう一本の方の ウッディ・アレン監督の「インテリア」だったのだが・・・。)
初めて見るベルイマンの「叫びとささやき」、 それは70年代に作られたカラー映画で、 壁や絨毯の毒々しい赤い色が不安感を誘い 登場人物はあたかもムンクの絵を見ているかのごとく、 孤独と不安で泣き叫ぶ。
ものすごく・・・は〜どな作品だった。どっと疲れたもんだ。(笑)
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しかし。 前に書いた通り、私はドストエフスキーの悪魔的人物像に惚れちゃったりする ひねくれまくった女学生だったので(笑) この「叫びとささやき」の登場人物が なぜにそれほど孤独と不安で泣き叫んでいるのか・・・・
ドストエフスキーの登場人物に一脈通じるところがあるっ!! ・・・と決め込んで、このスウェーデンの監督に猛烈な興味を抱いたのである。 (これも前に書いたけんど、私は悪魔的人物ってのが大好きなのであ〜る。)
ベルイマン監督の映画も、幸いその当時はテレビで放映される機会も沢山あり、 名画座でも頻繁に上演されていたので、 学生の暇な身分を利用して、私はせっせと見続けた。
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スウェーデン生まれのこの名監督は 「野いちご」「沈黙」「処女の泉」などでたいそう有名なお方だと後で知った。 多分昔から映画が好きな年配の方がたの方が詳しいかもしれない。 だけどマイナーですよねえ〜(^^;)
友達に「ベルイマン」と言うと、一瞬ぽかんとされます。 昔のモノクロ作品はもう貸しビデオ屋にも置いてないですもん〜。
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それはさておき・・・・
ベルイマンの映画の登場人物はみな、「神の存在」が信じられず、 (この「神」の存在の有無が彼の作品ではすごく重要なポイントらしい。) それ故、他者との共感、愛情が持てない人々である。
どの映画にも痛々しいくらい孤独な人間像がたくさん登場する。 彼らの多くは劇中で「エゴイスト」とか「冷たい人間」と呼ばれている。
また、物語に牧師、または牧師の奥さんなど、聖職者、聖職者の家族が多く登場するのは、 きっとベルイマン自身が牧師さんの息子だったからだろう。 (なんでもすごく厳しいお父様だったらしいっす)
彼はきっと、「聖職者(またはその家族)ですら、神の存在が体感できない。 故に、他者との共感ができない。」という 残酷なシチュエーションを意図的に作り出し、神の存在を問うているのだろう。
・・・・・しかしこの、「神の存在」を理解するのって、 我々日本人には難しいですねえ〜(^^;) 私も決して良くわかる、とは申せませんー。
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しかし。 そんな無知なわたくし・keroが 非常にジコチューなとらえかたをすれば・・・だ。
やはり最初に「叫びとささやき」を見た時に感じたように、 ベルイマンの世界って、 ドストエフスキー文学の、悪魔的人物像と一脈通じている。 (・・・・ような気がする。)
中村健之介氏は「ドストエフスキー人物事典」の中で、 彼ら悪魔的人物像の事を「死産児タイプの人間」と呼んでいる。
「死産児タイプの人間」は、 他者との共感や世界との共感が生まれながらに欠けていると言う。 それがラスコーリニコフやスタヴローギンなのだと。
ベルイマンの登場人物の孤独感っていうのも、やはり同じように、 神の不在を確認し、ゆえに肉親や友人とも共感できない。 ・・・・という深刻なもののように感じられる。
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だが。 さらにまたジコチューな分析を続けると・・・・
ベルイマンの映画と、ドストエフスキーとの決定的違いは、 「死産児」とは、「人物のタイプ」としてではなく 人間ならば誰でもが必ず持っている、 「性格の一面」としてとらえている事ではないか、と思う。
「罪と罰」では、死産児タイプのラスコーリニコフに対して ソーニャとかリザヴェータのような「善い」人物が存在する。 ソーニャには、ラスコーリニコフの悩みに 心から同情し、共感することができた人物だが、 一方において、彼の「死産児」としての孤独感や絶望の理由が理解できない。
だけど、ベルイマンの映画では、登場人物のすべてが、 他者との共感とか世界との共感が得られずに悩んでいる。 ・・・・ような気がするのだ。
人間ならだれしも「死産児=共感不能」の悩みがあるはずだ・・・・ とベルイマンは言っているのだろうか?
彼は、「どんな"善い"人間同士でも、 ほんのささいな事柄からどんなに憎み合うことか・・・」 という、とても辛い命題をつくりだす。 他者を理解するとは、世界を理解するとは、どんなに難しい事なのかと問いかけ その謎解きを行なっているかのようだ。
これって、最後までキリストを信じ、 信仰によって「死産児」を救うことができる、と信じたドストエフスキーと、 「神は不在」と結論したベルイマン監督との違いなのだろうか。
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にっぽんじんである私・keroには、 「神はいない」 これはと〜っても簡単に「あっ、そう。」と間の手を打てちゃう。(笑)
というより、神の不在を確認するまで それほど悩みまくったベルイマンおよびヨーロッパの精神構造っちゅうものが そもそも理解しづらいで〜す。(外道)
しかし。 そんな外道な私・keroでも、やはり ベルイマン映画のあの執拗に繰り返される、 「どんな善い人間同士でも、 ほんのささいな事柄からどんなに憎み合うことか・・・」 という問いかけにはショックを受け、大いに考えさせた。
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映画「秋のソナタ」では、往年のバーグマンとリヴ・ウルマンの演じる 母と娘の葛藤がものすごい生々しさで描かれる。
その中でバーグマン演じる母親は、 「私はおまえ(娘)を愛せない。要求が怖い。」とのたまう。
有名なピアニストである彼女は、娘を小さいころから おいてきぼりにし演奏旅行を続けた。 彼女は彼女なりに娘を「愛しているつもり」で接していたのだが・・・ 結局、娘の側から見れば、そうではなかったという事が 娘がもう成人し結婚した今になって露呈する。
娘は母親の愛を求める反面、猛烈に過去の事柄を恨んでいる。
また、バーグマン演じる母親は、自分の生んだもう一人の障害をもつ娘を、 全く愛することができないでいる。
母と娘という、最も無償の愛情で結ばれるはずの人間関係なのに、 ベルイマンはすごく残酷な描き方をしている。
自分自身の亡き母親の顔が思いだしたくても思い出せない・・・・と 悩むバーグマンも印象的だ。 仮にも自分のおっかさまなのに、その顔が思い出せないとは・・・。 「誰も愛していない自分が怖い」と彼女は言う。 でも一方において、彼女は娘の猛烈な憎しみや、自分自身の孤独感には 平気でいることが出来ず、苦悩する。
バーグマン演じる母親は、特に異常な人物として描かれているわけではない。 ベルイマンは誰の心の中にでもある、 「死産児」の性格をえぐり出しているだけなのだ。
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どよ〜〜ん。
重いテーマだあ〜〜〜! だけど、こういう心理って、考えてみりゃ人間だれでも持っている側面だと思う。
誰でも結局のところ、自分自身を一番愛しているわけだから 他者に対して「本当の」愛情や共感を持てるかなんて、自信ないだろう。 誰もが、ベルイマン版「死産児」、エゴイスト、冷たい人であり得る。
ベルイマンは映画という「鏡」を通して、 その中に観客である我々の姿をもすごく残酷に写しているのだと思う。
正直言って、どよん、と落ち込むことしばし。(^^;) 鏡の中の自分の姿も、彼の描く登場人物と大いに重なるわけだから・・・・。
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しかしそれでも私が、無性に彼の映画が見たくなるわけは・・・・ (実はアタシってマゾなのかもしれないけれど ^_^; ) その手法の直截さと正直さにあるのだと思う。
ベルイマンは誰よりも人生をまっすぐ見つめている人なのだなあ、と 彼の映画を見るたび思ってしまう。 だからこそ安直に愛情とか共感を扱わないのだろうと・・・・。
最初にベルイマンを見たときウッディ・アレンの映画と二本立てだった。 だからってワケではないけれど、 私にとっては、人生をはすかいに見てるのがウッディ・アレン。 人生をまっすぐ見ているのがベルイマン。
おおむね、気分が鬱の時はベルイマン監督の映画、 躁状態の時はアレン監督の映画、と ニーズによって使い分けておりま〜す!!ははは・・・(笑)
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そんなベルイマンの映画には、じつは とっても美しい透明感のある部分も満載なのです! アタシのお気に入りは「野いちご」のラストシーン。
主役の老教授はやはり「死産児」タイプで、 世間では立派な人だと評判の医師なのだが、 肉親やごく近しい人からは「エゴイスト、冷たい人」だと言われている。 「人間の感情がない」なんてことまで言われたりする。
彼の冷たさを知った幼なじみの婚約者は教授の兄と結婚してしまい、 その後娶った妻は浮気したあげく自殺する。 老教授の息子もまた、そんな父親のためなのか 同様に「死産児」タイプ。 息子の嫁さんは息子の「氷のような冷たさ」に非常に悩んでいる・・・。
老教授は自分が裁判にかけられる夢を見る。 そして、他者を愛せなかった罰として、「孤独」を言い渡される。 彼は苦しむ。 自分の生涯を省みて激しく後悔するが、もう遅い・・・・ (ここのあたり、過去と現在が交差する演出で、とっても良いです〜)
さて、美しいラストシーン。
老教授はベットにもぐるが、不安感でなかなか寝つけない。 心を落ち着けるために、自分の幼年時代を思いだす。 まだ母親と父親が生きていて、幸せだった幼年時代。 幼なじみの婚約者が昔の姿で微笑みながら彼を湖に案内する。 両親は湖で釣りをしていて、遠くから手を振っている。
彼は幸せそうなため息をついて、静かに眠りにつくのだ。 このあたり、何度見ても泣けちゃいます〜(T.T)
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人間というものは確かにエゴイストで冷たくて、 他者に対して本当のとこは愛情なんて持てないのかもしれない。 だけど、やはり「少しは」あるのだ。美しい感情って。 それが凝縮された風景が、この幼年時代の思い出の風景なのだろう。
老教授は幼年時代の自分の幸福感を思いだし、 「孤独」の罪をいっとき忘れて、幸せそうに眠る。
このラストシーンは、本当に大好きだ。 私にとっては、数ある映画の名・ラストシーンの ナンバーワンに推薦したいくらいなのじゃ!!