YOKO NAKAGOME WORKS

制作ノート

モノクロ作品

学生時代、卒業後数年間はひたすらモノクロ作品ばかり作っていました。 このHPに写真を出していませんが、ものすごい数のモノクロ作品が私の家のマップケースにしまってあります。

技法的には銅版(主にエッチング、アクアチント、部分的にルーレット)一版一色刷り・雁皮刷り。使用している紙はハーネミューレです。

銅版画の魅力は、銅という素材の層の深さが、そのまま紙にプリントできることにあります。 モノクロ作品を沢山作って、その層の深さ厚さ、黒の魅力を知ることができたのは、私にとってかけがえのない経験になりました。

また、この時期から、今にいたるまで続いている好きなモチーフの数々を発見出来るようになりました。

私は好んで樹を描きますが、葉のついていない枯れ木、いわば死んだ形の樹の幹を描くのが好きです。 有機的なものと無機的なものの対比にも興味を持ちました。 工業地帯の風景、都市の風景、たとえば溶鉱炉、クレーン、風力発電の風車、など。

風力発電の風車といえば、2000年に出版された村上龍氏の「希望の国のエクソダス」で北海道に新しく建設された都市の風景ですごく印象的な場面があります。風車の羽に独特の加工をして、羽が回ると音楽のような響きが都市中で聞くことができるのです。何となく嬉しくなってしまいました。

そして船。 以前読んだラテンアメリカの作家・ガルシア・マルケスの「百年の孤独」という作品のなかで、空想の街マコンドへの道しるべとして船が置かれている、という一節がありました。 また、私の大好きなワーグナーの楽劇には、たびたび船が登場します。 めったにオペラを見に行けないわたしは、CDを聴きながら舞台写真集を見て想像力たくましくし、船の形を好きに思い描きました。

旅の記憶

ある時、色版をつくってみたい、と思いました。モノクロ作品ではできない、版を複数枚重ねて作る、色ならではの不思議な空間を出したい。

半年くらいは全くものにならずに、大変苦労して失敗作を大量に生産しました。

技法は、銅版(エッチング、アクアチント、部分的にルーレット)3版4色〜5色刷り。 雁皮はかけていません。刷る紙はベラン・アルシュに代えて、一版目から最後の墨版までを一気に刷り上げています。

この時期から、なんとなく自分の作品に「コラージュ」的要素が出てきたような気がします。 題材も今までは無意識的に使っていたのですが、少し意識して有機的なものと無機的なものをミックスして画面に配置するようになりました。

題名から、「どこに旅をしたのですか?」などと良く聞かれたものですが、旅とは多分に心理的なものです。(私は知る人ぞ知る、すごい出不精)

私の住む横浜という都市は港があり、そこから俯瞰する水平線の景色はクレーンや船が毎日浮かんでは消えて行きます。そういう都市の空間が自分の原風景かしら、と考えたときに、ではその風景からどのように「旅」をしていくのか、といったところがこのシリーズの制作動機であります。

水の墓標

色彩銅版画を作ってみて、一つ不満だったのは、「いったん構図を決めたら変更できない」ことでした。最初に大体の構図を決め、透明フィルムから3枚の銅版ににトレースをして、描画、アクアチント。どうしても大幅なプランの変更は無理になります。

ところが、私はかなりの「気分屋」というか、油絵を描いていた時代から「消す」作業が大好き。きっちりと構図、プランを頭に描いて、その通りに制作を進めていくタイプの作家もいらっしゃるようですが、私は正反対。 どんどん手を入れて、とったりつけたり、描いたり消したりのタイプなのです。

もちろん、モノクロの銅版画でも同じ事じゃないか?修正は大変なのじゃないか?と思われるでしょう。でも、1枚の銅版であれば、一旦腐蝕してしまった所を削ったり、磨いたり、また書き込んだりと、案外修正は可能なものです。(また、削ったり磨いたりは、作品の「味」になったりもします。)ただ、これが3枚の版となると、相当の手間と執念が必要となってしまうのです。

そこで、比較的修正が容易で、機械的にアクアチントをかけたりせずに作れる色版、を考えました。特に色版は銅版を使う必要がないのではないだろうか、と色々考えあぐね、凸版刷りを思いつきました。

この時期の作品は、油性インクのコラグラフと銅版画併用。

塩ビ版の上に樹脂を使って筆跡のマチエールを付けたものを1枚用意。(これにローラーで油性インクを凸版刷りします。)もう1枚は画面全体の一番明るい部分の色を凹版で刷る版を用意。(全体に軽く砂目のマチエールをつけたもの・この場合ではカーボランダムという、研磨に使う金属の砂を樹脂に混ぜて使っています。)最後に墨版の銅版を刷り重ねます。

モチーフは、一層抽象的になり、いかに説明的でない表現をするか、と考えました。(ただ、それが上手に人に伝わったかどうかはちょっと自信がありません。)

厚く油性インクが重なって、ちょっと滲んだような表現がこのころの好みでした。

水に写った鏡、というイメージに捕らわれました。

我々の都市はいずれは衰退したり滅んだりしていくものなのでしょうが、今現在私の住むこの街やこの都市が・・・と空想をたくましくしていくと、大変不思議な気持ちにおそわれます。 この風景は何枚かの不思議な鏡のようにも思われるのです。

祝祭の世界

厚く刷り重ねられた油性インクは、どちらかというと色が濁っているような気がしてきました。もっと透明感のある空間を出したい。

そこで、銅版プレスを使って水性の絵の具を刷るのはどうだろう、と考えました。

昔、大学時代に、リトグラフの教授の小作青史先生が、一版多色刷りの銅版画を制作していた時の事を思いだしました。リトグラフの先生らしく、銅版を腐蝕した線にエッチ液を詰め込んで、墨のインクをローラー盛りします。その上に、筆などで水彩絵の具をアラビアゴムで溶いた物をさっと塗ります。(アラビアゴムを混ぜるとつるつるの銅版の上でもはじいたりしない)プレスして、墨と筆で塗った水彩のカラフルな色の一版多色刷りができ上がります。

ただ、アクアチントの微妙な調子などは、一版だけでは上手に刷りとる事が出来ないかもしれない。 そこで、「水の墓標」シリーズの時につかっていた版構成で、全体にかかる調子の版を一版だけ水性絵の具を使ってみたらどうだろう・・・と考えました。

まず、一版目。筆跡のマチエールを付けた塩ビ版をローラーでインクを盛って、凸版で油性インクで刷ります。

2版目、全体に砂目のマチエールを付けた版に水彩絵の具+アラビアゴムを混ぜたものを木版用の刷毛などで薄くひいた版を刷り重ねます。

油性の筆跡の版は水彩を弾き、筆目のマチエールが生かされます。水彩絵の具は「重なる」と言うよりも「染み込む」感じで紙に定着します。

その上から、決定的な墨の版(銅版)が刷り重なります。

油性のインクがかなりの厚さで色版としてのっていた時よりもはるかに墨の刷り取りが良い。 しかも、色がクリアで美しいのです。

ただ、刷りの安定性という事からすると、どうしても難しいところがあります。どちらかというとモノタイプに近い制作のやりかたになってきました。 このころから、複数エディションを刷ることにこだわらずに、モノタイプをつくろうか、と少しずつ考えはじめました。

モチーフは、「水の墓標」の時に随分解体した「実際のモノの形」がまた少しずつ「形」として戻ってきたような気がします。

私は、たとえば音楽で言えば、バッハのような美しい幾何学的な抽象形態も大好きです。ただ、やはり「完全に文学的要素を排した抽象」は長い間は鑑賞することができません。「抽象的」な事は好きであっても「抽象」は苦手なのかもしれません。そして、モーツアルト、シューベルト、ブラームスと時代をさかのぼって行くのです。そして、現代音楽まで行き着くと、また、バッハ、モーツアルト・・・と、いわば言ったり来たりの音楽史の旅をしているようなものです。

私にとっては動機はやはり文学なのです。・・・ただ、その表現のしかたが今もこれからも、自分の課題です。

「祭り」とか「祝祭」という言葉について、確か『ドストエフスキー人物事典』(中村健之介氏著)を読んでいて、「白痴」のムイシュキン公爵の説明に使われていたのをいたく感動した覚えがあります。「白痴」は私が大好きなドスト氏の作品の一つです。

ムイシュキン公爵はもともと人と共感して宇宙と調和したい、と切実に願っていた人物だ。とその本では解題しています。そして、彼はそうはできなかった。公爵は「自然や宇宙が一体となった大いなる祭に自分も参加したい」と切望しているのです。

都市の装置

この時期は、小品をたくさんつくりました。

一つ一つの自分のモチーフたる「都市風景の元素」を、大河小説ではなく短編小説としてとらえてみようと思いました。

技法的には、この前の「祝祭の風景」の時と全く同じです。油性インク、水彩絵の具によるコラグラフ。銅版による墨版、です。

いろいろな事を考えました。

たとえば火は神話的な世界を連想させます。世界中の祭りや祝祭で火が使われています。 また、都市や街の風景はモノトーンの風景として記憶に残るのですが、時折原色のイメージが点滅します。それは屋根の色であったり、看板の色であったりしたはずなのですが、記憶に残るのは繰り返される幾何学形の形と目を射るような強い色なのです。

それらすべてが私にとっては記憶を呼び覚ます「装置」であって、装置を介して私は旅に出るのです。

断章

自分の作品はすべて、「コラージュ」(切り貼り絵)なのではないだろうか。では実際にコラージュで作品を作ってみよう、とひどく単純に思い立ちました。

版画とは、エディションを何枚も刷ることはなく、版による表現なのだ!と、これまた単純に思い立ち、当分の間はモノタイプをつくってみよう、と考えました。

私の作品は空間の中に浮游する「断片」からできています。都市をいろどる装置、記憶、すべてが断片。すなわち、ぷつっと切れた未完の小節の「断章」から出来ている。

そして、私の必要な空間は、演劇的空間。舞台の上に誰もいない、何の装置もない空間がある。それ自体は「何もない空間」です。しかし、演者がひとたび舞台に出て、舞台を横切ったり、立ち止まったりすると、たちまちそこは「演劇的空間」になります。

ただ単に、過去から未来、奥から手前への一直線の空間は面白くありません。わたしが好きなのは、行きつ戻りつ、光の進行も時間の進行も曲げてしまうような空間です。これは旅とも言っていいでしょう、私は不確実な予定通りでない旅をしたいのです。

私のモノタイプ作品は、「祝祭の世界」「都市の装置」と同じ色版のベースをつくっておきます。つまり、筆跡を油性インクで凸版刷りした一版目、水彩絵の具で2版目。ただし、モノタイプですから、2版目は筆で自由に色を置き、アルコールをたらしたり、一度限りのマチエールをつくって刷り取ります。 墨はその上に、あらかじめ雁皮だけに刷った銅版のモノクロの絵を素材集をあつかうように、はさみで切って糊で貼り付けてゆきます。

記憶の領土 / 薄明 / 火の柱、水の柱

コラージュワークを始めて、いくつか気づいたことがあります。

普通のエッチングの仕事では、細かい線を使った描写に走り、具象的な形を追ってばかりいたのですが、コラージュで形を切り刻むことによって、物の形をいったん解体し、元の形の意味をバラバラにした抽象性を発見できたこと。

普通のエッチングに比べると制作が大変早く進むため、画面上での形のリズムを興にまかせたまま自由に作れること。

モノタイプということもあり、一年間の作品数が自分としてはとても数多く出来上がりました。

このように、作品を短期間に大量に作れる経験は今までなかったので、自分にとって大変エキサイティングな事です。反面、自分の持っている「持ち札」の少なさが歯痒く、もっともっと記憶から、あるいは日々の生活から、色々な形を作り出して行かなくてはいけないなあ、と感じている今日この頃です。

水の都市

コラージュばかりを2,3年作り続けてみて、ある意味煮詰まって来たということもあり、銅版画で、以前作っていたようなやや具象的なイメージを復活させてみようか、と考えました。コラージュは発想とか制作過程においては、自分にとって大変自然で作りやすいのですが、以前銅版画でなぜ「不自由」さを感じていたのか?その辺をちょっとつきつめたくもあり・・・。

改めて「版画」に取り組んでみると、刷りの過程において特に、自分はちょっと頭が固かったのかしら、と感じました。どうしても版画の複数性を意識してしまい、「こういう事をやって、10枚刷って同じように刷れるのか」と、つい版の事ばかり考えてしまうわけです。それで、一版多色刷りをやってみようかと思いました。版の上で自由にドローイングをするつもりで、あまりメソッドや教科書的な刷り技法にとらわれず・・・。

結果、未だに答えは出ていませんが、銅版画の魅力を再発見することになりました。一版でもこれだけ表現出来る銅版画というものは本当に繊細で面白い。一版多色ということで、版のマチエールを最大限生かすこともできます。試行錯誤中ですが、何年かは試みて行きたいと考えています。

テンペラ画

テンペラに興味をもったのは、細かい線描が油絵よりも描きやすい事と、モノトーンの画面に油絵の具の透層(薄いおつゆ描きで透明色を重ねること)をやれる、それも短時間に出来ることです。早速小品から取り組んでいます。

実際制作してみて感動したのは、絵の具の透明性。下地の色に何度不透明色を重ねても、下の色が微妙に透けて、この辺は隠蔽力のある油絵の具とは全然違います。結果、白の美しさに熱中しました。下地の色の上にのせた白は、本当に透明感があって美しいのです。また、色みも柔らかくて本当に綺麗!今までドローイングにアクリル絵の具を使ったこともありますが、なんとなくしっくりこなかったのは、その「固さ」だったことがわかりました。テンペラは柔らかいのです。というより、いうなれば不安定な画材なのかも!?

厚塗りは絶対にできませんし、完全乾燥する前に濡れたウエスでこすると、描いた層はすぐに拭き取れてしまいます。この辺、いったん乾くと「カッチリ」固いアクリル絵の具とは感触が違います。その分、「消すのが大好き」な私としては、実は構図の変更、ものを描き足すなんてことが、かえって自由に出来るのが、今の所自分にとってベストな画材かと思っています。